返礼品について
◎2016年度全国伝統的工芸品公募展にて絵唐津草向付が特別賞を受賞
◎絵唐津草文花瓶 幅15×高32×高台幅9.5×口径6.2cm
肥前の陶器生産は1580年代頃、唐津市の岸岳城主波多氏が朝鮮の技術を導入し、岸岳城下で開窯したことに始まる。しかし、波多氏は文禄の役で豊臣秀吉に 改昜され、文禄3年(1594)常陸国に流された。その結果、保護者を失った岸岳周辺の陶工たちは離散した。 その後、肥前の陶器窯は伊万里や武雄地方など、佐賀県南部に広がる。一部は長崎県波佐見まで拡大した可能性がある。こうした陶器生産に、秀吉の朝鮮出兵後 に連れ帰られた朝鮮陶工が加わる形で肥前一帯に拡大した。 「多久家有之候御書物写」に金ヶ江三兵衛が朝鮮より連れ帰られ(1598)、多久安順の元にしばらく預けられた記録から、多久安順の下にいた金ヶ江三兵衛を頭とする朝鮮陶工で、多久から有田皿山へ移住した。新たな朝鮮の技術をもった三兵衛らが、唐人古場を築窯し、日本での陶器制作の試験焼成をしたと推測される。 唐人古場窯は1600-1610年頃の間の短期間操業であった可能性が高い。それに対し、高麗谷窯は出土品がより多彩なように、胎土目積段階の終末期に始まり、 三兵衛らが加わって磁器の試験焼成の始まりまでであり、1590年代末-1610年代前半頃と推測される。 高麗谷窯で、古田織部の影響を茶陶から、新たな高麗茶碗写しや白磁の試験的制作、白土を用いた装飾の陶器が始められるのが重要な特徴である。 太兵衛窯では、金ヶ江三兵衛の優れたデザインを現代社会に適した形で、北多久の土を使い多久古唐津の再現に至りました。
この作品は唐津ならではの伝統技法である絵唐津。
鉄絵が窯変した錆絵(サビエ)と釉薬による鶯色(ウグイスイロ)がとても美しい、芦の文様。古田織部の影響からの図案。
玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)と通称され、下膨れの腹に細い頸、ラッパ型に開く口を持つのが特徴です。
玉壺春瓶は宋代より陶磁器の器形として現れ始め、元代・明代と時代が下るにつれ、すらりとしたシャープな形から太く重厚感のある形へと変化していきます。
【地場産品基準該当理由】
区域内(佐賀県)の作業場で原材料搬入後すべての工程を行い、相応の付加価値が生じた唐津焼
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◎絵唐津草文花瓶 幅15×高32×高台幅9.5×口径6.2cm
肥前の陶器生産は1580年代頃、唐津市の岸岳城主波多氏が朝鮮の技術を導入し、岸岳城下で開窯したことに始まる。しかし、波多氏は文禄の役で豊臣秀吉に 改昜され、文禄3年(1594)常陸国に流された。その結果、保護者を失った岸岳周辺の陶工たちは離散した。 その後、肥前の陶器窯は伊万里や武雄地方など、佐賀県南部に広がる。一部は長崎県波佐見まで拡大した可能性がある。こうした陶器生産に、秀吉の朝鮮出兵後 に連れ帰られた朝鮮陶工が加わる形で肥前一帯に拡大した。 「多久家有之候御書物写」に金ヶ江三兵衛が朝鮮より連れ帰られ(1598)、多久安順の元にしばらく預けられた記録から、多久安順の下にいた金ヶ江三兵衛を頭とする朝鮮陶工で、多久から有田皿山へ移住した。新たな朝鮮の技術をもった三兵衛らが、唐人古場を築窯し、日本での陶器制作の試験焼成をしたと推測される。 唐人古場窯は1600-1610年頃の間の短期間操業であった可能性が高い。それに対し、高麗谷窯は出土品がより多彩なように、胎土目積段階の終末期に始まり、 三兵衛らが加わって磁器の試験焼成の始まりまでであり、1590年代末-1610年代前半頃と推測される。 高麗谷窯で、古田織部の影響を茶陶から、新たな高麗茶碗写しや白磁の試験的制作、白土を用いた装飾の陶器が始められるのが重要な特徴である。 太兵衛窯では、金ヶ江三兵衛の優れたデザインを現代社会に適した形で、北多久の土を使い多久古唐津の再現に至りました。
この作品は唐津ならではの伝統技法である絵唐津。
鉄絵が窯変した錆絵(サビエ)と釉薬による鶯色(ウグイスイロ)がとても美しい、芦の文様。古田織部の影響からの図案。
玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)と通称され、下膨れの腹に細い頸、ラッパ型に開く口を持つのが特徴です。
玉壺春瓶は宋代より陶磁器の器形として現れ始め、元代・明代と時代が下るにつれ、すらりとしたシャープな形から太く重厚感のある形へと変化していきます。
【地場産品基準該当理由】
区域内(佐賀県)の作業場で原材料搬入後すべての工程を行い、相応の付加価値が生じた唐津焼
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