返礼品について
文政年間創業の「織清」から続く、豊橋で一番の老舗うなぎ屋「丸よ」は『べっぴん』という言葉の発祥の地です。
江戸時代の文政年間(1830年代)、東海道の三十四番目の宿場として栄えた吉田宿。その中でも最も賑わった現在の札木町界隈にあった割烹料理とうなぎ料理の店「織清」が「丸よ」の始まりです。
『べっぴん』の云われとして、明治二十七年発刊の風俗画報第七十二号には次のように書かれています。
旧東海道の吉田駅に「織清」という料理店があり江戸からうなぎ職人を呼び寄せ、大きなうなぎを仕入れて焼き方や醤油の配合などを江戸風にして提供したところ、その独特な蒲焼がたいそう評判となった。何か宣伝文句があったらよいと考えた店主が、友人である田原藩家老渡辺崋山の息子渡辺小華に相談したところ、ほかの店とは違う特別なもの、という意味で思いついたのが「頗別品(すこぶるべっぴん)」の三文字。これを店の看板にしたところ、珍しさも相まってますます評判となり多くのお客が集まった。
「丸よ」の蒲焼は江戸時代から皮を上にして並べています。それは、「丸よ」ではタレがつきにくいと言われている皮にもしっかりタレがつく焼き方を守っており、江戸時代から変わらぬこの伝統を目でも楽しんでいただくために、焼きあがったうなぎの皮を上にしてご提供しているのです。
豊橋の養鰻場で育てた吟味されたうなぎ。豊橋で醸造された醤油を使った独自のタレ。
そして老舗ならではの技が、ふくよかな味わいをいっそう引き立てます。
「丸よ」では作り置きはしておりません。すこしでも本当のうなぎの美味しさをお届けできるよう、ご注文をいただいてから調理していますので、繁忙期には少々お待ちいただくこともございますが、何卒ご理解をいただきますようお願い申し上げます。
【江戸時代 文政年間(1830年代)創業の鰻の料理店です】
文政年間に割烹料理と鰻料理の店として創業した「織清」は、吉田宿では有名な店でした。
その後、明治に入り「織清」の主人に見込まれて後継者となったのが、江戸時代から続く船宿、中山家の息子だった中山要吉でした。その時、要吉の「よ」の字をまるで囲み屋号としたのが「丸よ」の始まりです。鰻の専門店として店名を「丸よ」とした要吉の思いがずっと生き続けているのです。
東海道五十三次の三十四番目の宿場町、参州・吉田の宿。当時は「吉田通れば二階から招く」とうたわれるほどにぎわいを見せていたと言われています。中でも、現在の札木町あたりは特ににぎやかで、享和二年には本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠六十五軒を数える程でした。現在の「丸よ」は、その二軒の本陣のうち、清須屋与右衛門当主の本陣が建っていた場所にあります。残念なことに、今では清須屋の面影を残す手がかりは残っておらず、当時の吉田の宿の繁栄の様子や郷土の伝統、歴史も十分に伝えられているとは言えません。そこで「丸よ」はこの歴史的要所を広く知っていただこうと、豊橋教育委員会の協力を得て、本店前に「吉田宿本陣跡」の石碑をつくりました。
豊橋にお運びの際には是非、美味しいうなぎとご一緒に、歴史の趣をお楽しみいただければ幸いです。
江戸時代の文政年間(1830年代)、東海道の三十四番目の宿場として栄えた吉田宿。その中でも最も賑わった現在の札木町界隈にあった割烹料理とうなぎ料理の店「織清」が「丸よ」の始まりです。
『べっぴん』の云われとして、明治二十七年発刊の風俗画報第七十二号には次のように書かれています。
旧東海道の吉田駅に「織清」という料理店があり江戸からうなぎ職人を呼び寄せ、大きなうなぎを仕入れて焼き方や醤油の配合などを江戸風にして提供したところ、その独特な蒲焼がたいそう評判となった。何か宣伝文句があったらよいと考えた店主が、友人である田原藩家老渡辺崋山の息子渡辺小華に相談したところ、ほかの店とは違う特別なもの、という意味で思いついたのが「頗別品(すこぶるべっぴん)」の三文字。これを店の看板にしたところ、珍しさも相まってますます評判となり多くのお客が集まった。
「丸よ」の蒲焼は江戸時代から皮を上にして並べています。それは、「丸よ」ではタレがつきにくいと言われている皮にもしっかりタレがつく焼き方を守っており、江戸時代から変わらぬこの伝統を目でも楽しんでいただくために、焼きあがったうなぎの皮を上にしてご提供しているのです。
豊橋の養鰻場で育てた吟味されたうなぎ。豊橋で醸造された醤油を使った独自のタレ。
そして老舗ならではの技が、ふくよかな味わいをいっそう引き立てます。
「丸よ」では作り置きはしておりません。すこしでも本当のうなぎの美味しさをお届けできるよう、ご注文をいただいてから調理していますので、繁忙期には少々お待ちいただくこともございますが、何卒ご理解をいただきますようお願い申し上げます。
【江戸時代 文政年間(1830年代)創業の鰻の料理店です】
文政年間に割烹料理と鰻料理の店として創業した「織清」は、吉田宿では有名な店でした。
その後、明治に入り「織清」の主人に見込まれて後継者となったのが、江戸時代から続く船宿、中山家の息子だった中山要吉でした。その時、要吉の「よ」の字をまるで囲み屋号としたのが「丸よ」の始まりです。鰻の専門店として店名を「丸よ」とした要吉の思いがずっと生き続けているのです。
東海道五十三次の三十四番目の宿場町、参州・吉田の宿。当時は「吉田通れば二階から招く」とうたわれるほどにぎわいを見せていたと言われています。中でも、現在の札木町あたりは特ににぎやかで、享和二年には本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠六十五軒を数える程でした。現在の「丸よ」は、その二軒の本陣のうち、清須屋与右衛門当主の本陣が建っていた場所にあります。残念なことに、今では清須屋の面影を残す手がかりは残っておらず、当時の吉田の宿の繁栄の様子や郷土の伝統、歴史も十分に伝えられているとは言えません。そこで「丸よ」はこの歴史的要所を広く知っていただこうと、豊橋教育委員会の協力を得て、本店前に「吉田宿本陣跡」の石碑をつくりました。
豊橋にお運びの際には是非、美味しいうなぎとご一緒に、歴史の趣をお楽しみいただければ幸いです。